「教える」ときに肝に命じておこうと思うこと
人に何かを「説明する」「教える」という行為は、難しい。それは、学ぶ者と教える者のあいだには、必ず"理解の差"が存在するからだ。
そして教える者は、その理解の差をしばしば忘れがちになるように思う。
"理解の差"
学ぶ者が新しいことを初めて学ぶとき、そこには少なからず不安がある。自分にわかるだろうか、理解できるだろうか、難しくないだろうか。先の見通しはもちろん立たず、常に手探りのなかを進んでいく。いわば、暗闇の中を乗り慣れない自転車で走っているようなものだ。いつつまずき、こけるかわからない。
それに対して教える者は、太陽が日を照らす明るいなかにいる。見晴らしはよく、こけることなど心配する必要もない。
これほどに、学ぶ者と教える者の"理解の差"は大きい。教える者がその"理解の差"の見積もりを誤ることで、学ぶ者の意欲を削ぎ落とすことが多い。
"理解の差"はどのように意欲を削ぎ落とすか。
■おいてけぼり
学ぶ者は、見通しが悪く、どう進めばいいのか、どちらへ行けばいいのか、なにが正解なのかわからない。正しい方向に行くためには、教える者の誘導が必要だ。
一方教える者は見晴らしがいいぶん、前に進むことを苦にしない。注意しなければどんどん進んでしまう。学ぶ者をおいてけぼりにして。
こうなれば学ぶ者は、「相当な努力をしながら、なんとか食らいついていく」か「進むのをあきらめる」かしか、残された道は無い。そしてよっぽど進む意欲がない限り、あきらめることを選択してしまう。
■進むことを強要する
教える者の「学習についてきてほしい」という気持ちが強いと、誘導ではなく強要になってしまう。教える者ははっきり周りが見えている中を進むので忘れがちだが、学ぶ者は暗闇の中を手探り進んでいるのである。暗闇の中でどんどん前へ引っ張られると、不安が増すことになりかねない。「わからない」というのは、想像以上にストレスだ。そこに自ら学び、進んでいく意欲は生まれない。
さらに教える者の「わかってほしい」という気持ちが、「なぜわからないんだ」という怒りに転換することは多々ある。ただでさえ学ぶ者はわからないストレスに苛まれている中、さらに教える者に理解しろと強要されれば、たとえ前に進めたとしても、そこには楽しさのかけらもない。
まとめ
つまりは、学ぶ者はとても足どりがおぼつかない存在であることを、教える者は常々肝に命じておかなければいけないということだ。学ぶ者が「わからない」と言うのであれば、その原因のほとんどが教える者にあると私は考えている。
わからないことを学ぶ者のせいにするのは簡単だが、それではなにも変わらない。
編集後記
今回はちょっと違ったテイストで、自分が普段忘れがちなことについて、自戒を込めて書きました。「である調」で書いたのですが、むちゃえらそうですね。しかも比喩がわかりにくいかも。でも、こんな風にしていろんな文体を試しながら、自分自身楽しみながら更新していきます。
今までのエントリは全てiPhoneで書いているのですが、結構時間がかかります。できればそろそろ MacBook Air 11インチ欲しい!そう思うこのごろです。
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