”教える”ことについて考えさせられた【書評】1分で大切な事を伝える技術

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1分。短くも長い時間。その1分で何をどのように伝えるのか。

”伝える”と”教える”には通ずる部分があります。伝えることに関して書かれた本書からは、教える際のヒントになることがたくさんちりばめられていました。

教える際の注意点

概して教えることが好きな人は、話が長い。それだ情熱や愛情に溢れているということでもあるが、はっきりいってあまり意味はない。教えられる側は、しばしば「ポイントだけにしてくれ」という気持ちになるものだ。
こんなことを言ってはあれですが、ぼくの職場(つまり支援学校)に話がくそ長い方がおられます。ぼくはひそかにその方を「シャべくりじじい」と命名したりしてます。話し始めたら止まらない、感心するほどに次から次に言葉が出てくる年配の先生です。その博識さには尊敬の念すら覚えますが、いかんせん話が長すぎるので、その尊敬する心も薄れて「シャべくりじじい」なんてあだ名をつけてしまっているわけです。

その先生は自らのスタイルで何十年も教師をやっておられるので、ぼくみたいな若輩者がとやかく言うことなんてできませんが、一から十まですべて言うのは”教える”という立場にある者にとっては適切な指導法でないな、とぼくは常々感じています。特に数学という学問では、学ぶ者が頭を働かせてこそ価値があるので、教えることは必要最低限に抑え、学ぶ者の自力解決をサポートしていく、そんな存在であるべきだと思っています。

学ぶ者をその気にさせる

重要なのは、誰かが走り込みたくなるようなスペースをあえて空けること。つまり大切な事を伝えつつ、しかも相手にその気にさせることだ。こちらのほうが、さらに高度な技術を要する。
「すべらない話」や「落語」は、話を聞いて「あーおもしろかった」で終わります。”おもしろい”や”楽しい”という感情はとても大切で、もう一度話を聞こうという気を間違いなく起こさせるでしょう。ぼくが「楽しい数学」を目指すのも理由もそこにあります。しかし、こと”学ぶ”に関しては、話を聞いて「楽しかった」でおしまいではいけません。話を聞いて”楽しい”と感じることに加えて、「自分でもできるかも」あるいは「自分でもやってみよう」という気持ちを起こさせることが必要となってきます。つまり自分の頭を使って考える気にさせることが求められます。これが本当に難しい。一生涯賭けて探し続けていくべきことだと思っています。

一分の密度を上げる

そこで重要なのが、一分の密度を徹底的に上げていくトレーニングだ。それによって、まず「高密度」という感覚を身体で覚えていく。
人間の集中力とは、ものすごいことを実現してしまう力を持ちながら、一方ではすぐに消え去ってしまうとても儚いものだとも感じています。学ぶ者の集中力が消え去らないうちに、伝えたいことを話し切る力というのは教える者にとって必須であるとさえ思います。分かりやすく説明するために、無駄な言葉は排除して、シンプルにまとめあげる力を、教える者は身につけておくべきなのです。

一分という時間内に伝えたいことを盛り込もうと意識すると、無駄な言葉をなくしていかなければいけません。そういうものを言っている間に、一分なんてすぐに過ぎ去ってしまうからです。一分の密度を上げる意識をすることで、そういった無駄をなくし、シンプルにまとめあげる力がついていくのではないかと思います。

おわりに

大学生の頃から”教える”立場についてまだ7年目。全然まだまだ分かってないことばっかりですが、「こうした方がいいんじゃないか」的なことははっきりと持っていたりします。確かに芯として持ち続けるべきものはあるべきですが、それにとらわれすぎず、多くの方の考え・意見に触れながら、”教える”ことについての自分の考えを養っていければいいなと思っています。だあらこそ本を読むこと、人と話すことが自分の糧になっている気がしてなりません。これからもじゃんじゃんばりばりやっていこうと改めて思ったりしたわけでした。

では、お読みいただきありがとうございました。

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