自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為



前回、こんなのを書きました。

育て、ふくらませて、凝縮する - 旧:iPhoneと本と数学となんやかんやと

その中で、「知的生産」について、こんな風に書きました。


自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為が、いわゆる知的生産ではないかな、と考えています。

自分で書いたことなんですが、なかなかに気に入ってまして。自分の中の「知的生産」の捉え方を、よく表現できたな、と感じています。

ブログを書く、ということも、まさにこの「自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為」そのものです。

誰かに発表する・しないに限らず、「自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為」こそが、知的生産だなと思うんです。


知的生産と言えば、「知的生産の技術」です。「知的生産の技術」では、「知的生産」というものについて、こんなふうに書かれています。


かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら—情報—を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ

この提出先は、いったいどこなのか、ということなんです。

ブログでは、不特定多数の方々に、頭をはたらかせて考えたことを提出することになります。企画案なら、会社の会議に出席する人たち。レポートであれば、大学の教授。友だちと話している中でも、自分の考えたことを話すことはあるでしょう。提出先は、いろんなところが考えられます。

そこに、自分を含めてもいいと思うんです。



自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為が、いわゆる知的生産ではないかな、と考えています。

「一枚の紙」という書き方をしていますが、紙である必要はありません。テキストデータでも、音声でも。文章である必要もありません。図や絵でも、考えがぎゅっとまとまっていれば、なんでもいいんです。

その、「自分の考えがぎゅっとまとまった」ものの提出先は、どこだっていい。自分を含めちゃってもいい。そう思っています。だからぼくは、せっせとEvernoteに、自分の考えたことを溜め込んでいっているわけです。Evernoteにためている情報の提出先は、自分です。未来の自分です。

自分というものは、一日ごとにはびっくりするくらい何も変わりませんが、長いスパンで見るとびっくりするくらい変わるもの。今とはちがう自分に対して、今の自分の考えがぎゅっとまとまったものを提出するのも、いいのかなと。だから、自分の考えがぎゅっとまとまった一枚の紙。それをどんどん増やしていくという行為が、いわゆる知的生産ではないかな、と考えているわけです。

おわりに

ただ単に、思いつきをポイポイと残していくのではなく、一度立ち止まって考え、ぎゅっとまとめたものを、どんどん増やしていきたいものです。一生涯かけて。

では、お読みいただきありがとうございました。