継続することが行動に意味をもたせる


何かをやりつづけること。最近その重要さがわかってきた気がする。

「指導案」について

授業を行うときに書くことがある「指導案」というものがある。授業の準備段階で、どんな単元の内容を、どんな生徒たちに対して、どういう流れで授業し、どんなことを身につけてもらい、どのように評価していくのかを書くものである。
この「指導案」を書くことは意味があるのか、意味がないのかよく意見がわかれる。
「書いても意味がない派」の主な意見はこうだ。
「授業における生徒の反応をあらかじめ考えていても、実際にそれ通り進むことはまずない。実際に授業を行っているそのときに判断していかないといけない。」
確かにそうだと思う。授業の流れを予測していても、想定通りに進むことはほとんどないかもしれない。でも、その原因はずばり「指導案を書き続けていないから」にあるとおもう。
最初から正確な授業の流れを予想することはできない。それは当たり前。そこで指導案で流れ考えても現場で変わるから指導案は意味がないと判断し、書くことをやめてしまえば、授業の流れや生徒の反応を考え、文章にすることをやめてしまう。
頭の中で考えるだけですますよりも、文章におこすことをした方が、授業についてより深く考える。それをしないために、授業の流れ、生徒の反応の予測力ってのは伸びていかないのではないかと思う。
指導案を書いても意味がないのは、書き続けていないから。
逆に指導案を書き続け、予測と検証を繰り返し繰り返し行っていくと、自分の予測力を磨いていくことができる。そして、より正確な授業の流れ、生徒の反応をイメージできるようになり、どんどん指導案を書くことが意味の深いものになっていく。そう思う。

やめるから意味がなくなる

この話は、ほとんどのことに言える。
いろんなことを記録していても意味がないと言う人は、得てして記録をすぐやめてしまっている。早起きに意味を見出せない人は、早起きをすぐにやめてしまっている。
でも、この考えは順番が逆である。
意味がないからすぐにやめる、ではなく、すぐにやめるから意味なく感じることになってしまうのだ。
そういうことを考えていて、何かをやりつづけることは意味ある行動を生むためには必要不可欠であるという結論に至った。
継続力。こう書いてしまえばなんだか言葉に重みは感じられなくなってしまうが、この力の重要度はびっくりするほど高いなと感じた。

おわりに

とはいえ、何かをやりつづけることがぼくは苦手です。苦手とわかっているから、いろんな工夫や怠け者な自分への対策を考え続ける日々です。
とりあえず「考える」という行為はつづけることができているので、そこから何かを生み出していければなと思います。
では、お読みいただきありがとうございました。

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