この思考はどこからくるのか? 〜「情報の文明学」を読んで考えたこと〜


FlickrIMG_3903 by choiyaki

「情報産業」と言われても、今では全く違和感を抱かなくなりました。

情報を提供して利益を得ている人の数は、以前と比べて格段に増えています。また、インターネットにより、情報の速報性や、量がどんどん膨らみ、いつでもどこでも、得たい情報が得られるようになってきています。

でも、今でこそ当たり前のことであっても、以前は当たり前ではなく、特に1960年代に、「情報」のとりまきが、ここまで膨らむこと、情報産業の世の中に移っていくことを見通すことは難しかったはずです。

なぜ、梅棹さんは、先の世の中がどうなっていくのか、ここまで確かに予測できたのか。なにを考え、どんなことに注目すると、その思考に至るのか。

本書を読みながら、著者、梅棹さんの頭の中をのぞきこむことができればいいのになぁと、そんなことばかり考えていました。

明確な定義と、抽象化

1960年代のことはあまり知らないのですが、本書から察するに、産業が農業主体であったところから工業に移り変わり、物の生産が活発になってきたころでしょうか。そんななか、ラジオやテレビが民間の企業から発信されるようになり、情報を伝える動きがちらほらと出てきたころ。

ここで、梅棹さんは、「情報」をひろく解釈することで、情報を「売る」商売は、実はたくさんあることを明らかにしていきます。


情報ということばを、もっとひろく解釈して、人間と人間のあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまな形態のものを「売る」商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。

情報を明確に定義し、いたるところに存在する「情報」の商売に目を向け、これからの情報産業について考えを進めていきます。

明確に定義することで、いろいろなところにちらばっている「情報」を発見することができます。一つ一つの具体例から、それらに共通する要素を抜き出し、つまり抽象化し、当時の「情報」の現状を把握することで、これからの歩みを導き出したのかな。

梅棹さんの頭の中をのぞきこむことはできませんが、精一杯推測してみて、こんな感じに落ち着きました。

どちらが先か

どのように将来を予想したのか、推測を簡単に書きましたが、でもこれって、いうのは簡単でも、やるのはそう簡単にできるもんじゃない。

本書の中には、農業→工業→情報産業と移り変わっていくとの予測を、人間の体の器官と対比させることで、工業の次には情報産業が主体となってくることを説明しています。(農業を「内胚葉器官」、工業を「中胚葉器官」、情報産業を「外胚葉器官」)。

ここで、どのようにして梅棹さんは将来を見通したのか、に注目すると、一つ、疑問がわいてきました。

これはどっちを先に考えついたんやろう、と。次は情報産業の時代がくると思って三胚葉との対応を比喩的に思いついたのか、三胚葉と対応していて、中胚葉の次は外胚葉器官へと人間の興味は移っているのでは、という推測から、次は情報産業になっていく、
と考えたのか。

どちらにせよ、人間の活動に対する予測を述べる、今後の人類の歩みについて考える上で、人間の器官に注目することは、確かに有効であるでしょう。

一見つながりのなさそうな産業や人間の器官を組み合わせながら、結論を導き出していく。広く物事を見渡すということも、とても大切になってくるように思います。

おわりに

本書は、1960年代に書かれた論文から、少しずつ現代に近づいていきます。と言っても、本書がでたのは30年ほど前。その梅棹さんの予測と、今の時代とを比べながら、「ここはほんまその通りになってるなぁ」とか、「ここからさらに進んで、今現在は。。。」とか考えながら読むことができ、出版当時に読むのとはまた違った捉え方ができたのでは、と思います。

ぼくも、広く物事を見渡し、考えるようにしていきたい物です。

では、お読みいただきありがとうございました。

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